調べもの【4】「万国博覧会」
■以下、Wikipediaを読み、それを要約したものです■
国際博覧会は、国際博覧会条約に基づいて行われる複数の国が参加する博覧会である。
万国博覧会とも呼ばれ、英語ではEXPOとも称される。
1798年、フランス革命の時期のパリで初めて開催された。
1849年までにパリで11回開催され、徐々に規模が大きくなっていった。
同様の博覧会がベルギー、オランダなど各国でも開催されるようになると1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し、1851年に第1回国際博覧会がロンドンで開催された。
初期の万博としてクリスタル・パレス(水晶宮)が造られたロンドン万国博覧会(第1回)やエッフェル塔が建設されたパリ万国博覧会(第4回)などがある。
1880年代以降は、欧米各国が国力誇示と植民地気運を高めるため母国やその植民地で競って開催した植民地博覧会も国際博覧会の一種である。
欧米列強に倣い20世紀初頭には日本も朝鮮・台湾で博覧会を開催した。
公式マスコットが登場したのは、1984年のニューオーリンズ国際河川博覧会で、「シーモア・D・フェア」である。
国際博覧会条約に基づく博覧会を行うには開催を希望する政府が博覧会国際事務局に申請(立候補)し、総会で承認される必要がある。
パビリオンの建設は各参加国が行う。
日本に国際博覧会の存在が伝わったのは1853年であると考えられており、別段オランダ風説書を通じてニューヨーク万国博覧会の開催と、前々年の1851年に同様の催しがロンドンでも開催されたことが伝えられた[5]。
日本が初めて参加したのは幕末の1867年、幕府および薩摩藩と佐賀藩が参加したパリ万国博覧会(第2回)であり、維新後の新政府は1873年のウィーン万国博覧会から公式参加を行った[7]。
明治・大正頃の国際博覧会では日本の芸妓が接待役を務め、この時紹介された浮世絵はモネらフランスの画壇に影響を与えたことは広く知られている。これらが「ジャポニスム」と呼ばれたものである。
1940年に東京の月島(晴海)などを会場に紀元2600年記念日本万国博覧会および東京オリンピックを開催すべく準備が進められた。前売り券(10円)も販売され、勝鬨橋は整備の一環で造られた。日中戦争が激化したため、軍部の反対および参加国の減少が確実になったことなどで1938年に延期が決定し実質的に中止となった。
日本およびアジアでの開催は1970年に大阪で開かれた日本万国博覧会(大阪万博)が最初である。