一九四三年。

 東欧、ハンガリー王国。

 梅雨入り間近の村にある診療所にて、老齢の医師フロップと少女は対面していた。

「ハンナさん、調子はどう?」

対面する少女は三度目の診断だ。

「変わらず、寝つきはよくありません」

「夢をみるから?」

「そうです。そしてその夢の後での出来事に追われるからです」

 再度、診療記録《カルテ》を確認する。

 |極度の精神不安《ストレス》による幻覚、妄想あり。

 家族の協力のもとで療養を提案する。

 前回の診断でそう記録した。

「ならば、休めてはいないね」

「はい」

「睡眠薬で無理矢理に眠るという方法もあるけど作用が強力でね、飲めば副作用、依存性共に高いんだ。ハンナさんはまだ若いからその選択肢をとる前に、そうだなぁ、ヘーヴィーズにある療養所を紹介しよう。そこで一~二ヶ月ほど療養するといいよ」

「療養すれば夢を見なくなりますか?恐ろしい出来事はなくなりますか?」

「わからない。わからないが、ぼくは医者としてハンナさんのためにできる最大の解決策を見出そうとしている。一つ一つやっていこう。ハンナさんが再びまた元気に過ごせるまで、ぼくはきみに尽くそう。慌ててはいけない。へーヴィーズの療養所。君が望めば紹介状を用意しよう」

「考えます。今日はどうもありがとうございました」

 立ち上がった少女がぺこりと頭を下げて診察室を出る姿をフロップはお大事にと見送った。

 ◇  ◇  ◇

「ただいま」

「おかえり、どうだった?」

 家に戻ると姉のレーナが作りかけのカロチャ刺繡のハンカチを片手に持って出迎えてくれた。針がささったままだ。

「ヘーヴィーズにある療養所で療養したらどうかだって」

「ヘーヴィーズ……、ってどこだっけ?」

「バラトン湖の西の方にある温泉地だよ」

「あぁ!あそこね!昔行ったことあるわよね」

「うん」

「って!そうじゃないわ!あのヤブ医者許せない!まだハンナを|おかしい人《精神疾患》だと思ってるんだわ!」

 ぷんすかと腹を立てながら姉のハンナはやりかけのカロチャ刺繡のハンカチを完成させるためにテーブルへ戻っていく。

「普通の反応だと思う。悪魔、なんて言っても信じてもらえるわけないよ。家で起こる出来事も、その目で見なくちゃわかってもらえない」

「ねぇハンナ、あたしに考えがあるの」

「どんな?」

「それはね────」

 ◇  ◇  ◇

 寝てしまっていた。

 パンを食べ、豆のスープを飲んだあとで軽い空腹が満たされたのか睡魔が襲ってきたので寝てしまい、現在に至った。

 外は暗くなっており、カーテンは姉のハンナが閉めてくれたようだった。

 フロップ先生を自宅に招待するというものが姉の考えで、実際その目で見てもらおうじゃないかという事だが、知り合いでもないのに診察以外のことでそんなこと応じてくれるのかという問題についてはこれから考えるとの事だった。

 ゆっくりと体を起こしながら壁掛け時計は十九時四〇分を指していた。夜だ。
 ふと、枕元に置手紙があるのを見つけた。

 姉のものだ。

 ハンナへ。
 ヤブ医者を連れて戻ります。
 レーナより。

「……」

 姉の行動力は真似ができないと昔から思う。

 そっと手紙を置いてベッドから出ようとした時、部屋の扉が少しだけ開いていた。

 そしてその扉の外、暗闇より悪魔が顔を半分覗かせこちらをジッと見つめていた。

 ◇  ◇  ◇

 トントンと扉を叩く音が聞こえたので初老の医師フロップは扉を開けた。

「先生、葡萄酒《ワイン》持ってきましたよ」

 黒色の修道服を身に纏った女性が瓶に詰めた葡萄酒を二本持って立っていた。

「ビオラか。いつもありがとう」

「いえいえ」

「飲んでくか?戒律《かいりつ》では節度を保って葡萄酒なら飲んでもいいのだろう?」

「お誘いありがとうございます。お気持ちだけで受け取りましょう。それより最近先生のところに悩める子羊は来たりしていませんか?気配がするんですよねー、悪魔の」

「患者の情報は話せない」

「困った人を見捨てないのは先生《医者》も|あたし《修道会》も同じでしょう?」

「同じだと思うが、信頼関係で成り立ってる以上は話せない。……ところで悪魔というのは本当に山羊ヤギの姿をしているのかね」

「そう見えてるだけです。人々の想像が悪魔イコール山羊って固まっちゃってるんでそう見えるんですよ。聖書に『羊は右に、山羊は左に』っていう対比言葉があるんですけどそこからです。羊は従順で正しい者として、山羊は反抗的で裁かれる者として書かれていて、悪い奴、悪魔!って象徴として山羊がよくイメージされてます。……それじゃあ教えて下さい。」

 ◇  ◇  ◇

「お取込み中、ちょっといいですか?」

 患者の情報を教えろと修道女ビオラに迫られているところ、息を切らして少女が現れた。

 走ってきたのだろう肩で呼吸をしながら少しずつ整えるその姿は今日診断に来た少女の姉だった。名前を確かレーナといったか。

 前回の診断で会ったことがあるがヤブ医者呼ばわりされ良い印象はない。

「先生!ハンナは精神病じゃあありません!診察室の中じゃなくって|あたしの家《現場》に来て、その目で見て下さい!」

 強引に手を掴まれグイっと引き寄せられた。

「っとっと、ちょっと待ってくれ」

 そんな言葉もお構いなしに少女レーナは腕を強く引っ張ってくる。

「あなた、名前は?」

 問われた少女の動きが止まる。

「レーナです。丘の上の修道女さんですか?」

「そ。あたしはビオラ。困ってるのよね?手を貸すわよ?」

「いえ、大丈夫です。こちらの先生に直接その目で見てもらいますから!」

 言って先ほどより強い力で引っ張られた。

 ◇  ◇  ◇

 先生がどこかへ連れて行かれた。

 そのどこかとは少女レーナの言動で察しがついた。

 おそらく悪魔憑きの少女を精神病だと診断したのだろう。

 悪魔の気配がある限り、修道女として見ぬふりはできない。

 修道女ビオラは一人診療所の裏手にある中庭へ向かう。

 人の気配のない静寂の空間で一人夜空の下、ポケットより手のひらサイズの一枚紙を取り出してそれを二つに折った。

 そして。

「旧約《きゅうやく》、第一章二十八節より抜粋────、」

 二つに折られた紙がまるで鳥のようにパタパタと羽ばき始め、頭上でとどまった。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」

 その言葉が合図となって鳥のような一枚紙が四枚に増え、計五枚となったと同時に四方へ飛散していった。

 そしてビオラは中庭を出た。

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